ヤマヒロの日記



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   ライフ日記

人生で体験した出来事と心情、思ったこと感情など
 
                   

ガーデニング

結婚記念日

母のこと

新型肺炎コロナ

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13.サラリーマン時代

12.高校、就職

11.中学校時代

10.小学校時代

9.アレルギーU

8.アレルギーT

7.音楽

6.体育

5.恋心

4.乗り物酔い

3.保健室

2.愛猫「きなこ」と愛犬「ネオ」のこと

1.伊勢湾台風

 

13.サラリーマン時代

                         
         ガーデニング          
 18歳で就職し、60歳で定年退職しました。その間の良かった探しをしてみたいと思います。

 1.長短はありますが、6つの工場を転勤しました。そのいずれも東西南北私の家を中心にありました。そのおかげで通勤は問題なく便利でした。就職するときには全く意図していませんでしたが、後でわかったことでした。
2.大企業だったので福利厚生制度がしっかりしていました。有給休暇、労働時間、健康保険、保養施設、団体生命保険等
3.退職してからのことですが、退職金(企業年金)、厚生年金が充実していること、継続して保養施設、団体生命保険が使える等

 現役のときは厳しく辛い時もありましたが、終わってみれば懐かしい思い出です。                
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ガーデニング

                         
         ガーデニングガーデニング          
 祖父母も両親も亡くなり、相続しました。3世帯分の広い土地を管理しなければならなくなりました。一番やっかいなことは,雑草対策です。生前、母も毎日のように草取りをしていました。ですから雑草は目の敵なのです。初め私は砂利で埋めつくそうと考えました。

 ユーチューブで「カーメン君」を知りました。その中で雑草対策を見たのです。発想の転換です。緑を味方にしてしまうのです。ガーデニングで土地をグリーンカバーしてしまうのです。雑草を生えにくく緑化してしまうのです。緑は人の目に優しく癒しを与えます。緑は温度を下げ、環境にも優しいのです。逆に砂利、コンクリートは無機質で命がなく、殺風景です。

 私は、元々山が好きでハイキングや旅行が好きです。緑の素晴らしさは良く知っていました。これからは庭を緑化、ガーデニングで素敵な憩いの場所にしようと思います。                
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高校、就職

                         
         結婚記念日結婚記念日          
 私は小さい時から電車が大好きでした。近くに私鉄が走っており、毎日のように見ていたのです。それで大きくなったら電車の運転手になる夢を持ちました。

 高校3年の就職を決める時までそのつもりでした。しかし時代はオイルショック、国鉄(今のJR)の大赤字、就職難となってしまい無理だと解り諦めました。先生のお薦め先は大手自動車部品会社。私は言われるままに決めたのです。目標を失った私は何も思い浮かびませんでした。

 以来42年間その会社に勤めました。波風浮き沈みありましたが何とか定年退職まで続きました。良かったことを挙げます。@自動車産業は今も好調で在職中も定年退職後も金銭面では恵まれ家庭の支えとなってくれました。A振り返ればいろいろな工場に転勤しましたがどの工場も私の家の周辺にあり、通勤に便利であったこと。思わぬ良い誤算でしたB大手の会社だったので定年後の再就職に有利になったと思われること。B試練、忍耐の訓練になったでしょう                
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結婚記念日

                         
         結婚記念日結婚記念日          
 勤めていた会社の経営するリゾート施設に妻と妻の母、妻の妹の3人が予約していました。しかし、新型肺炎コロナを恐れて遠方の母と妹はキャンセルしてきました。そこで急きょ私と妻の二人で行くことにしました。

 リゾート施設からメールで記念日などの対応ができる案内がきました。私は結婚記念日に近かったので花束とメッセージを頼んでみました。妻に対する感謝を表わすためサプライズを計画、秘密にしておいたのです。

 当日夕食になり、施設のスタッフが花束をもってきました。私は花束を渡し記念写真を撮るだけと思っていました。ところが大型モニターにメッセージが映し出され、館内に放送で結婚記念を知らせ、スタッフの人たち、レストランにいた宿泊者たちもお祝いの拍手をしてくれました。これには驚きと照れくささでいっぱいの思いになりました。さらにデザートにケーキとフルーツをサービスしてくれたのです。妻にサプライズするつもりの私が逆にサプライズしてしまいました。一番サプライズしたのは妻であることは言うまでもないことです。そうとう嬉しかったようです。                
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母のこと

 
                         
                  
 母が亡くなりました。88歳です。

 戦中戦後の貧しい生活を体験し、苦労を重ねましたが、定年後は、旅行、カラオケ、グランドゴルフなど楽しんだようです。

 亡くなる一か月前、食物が食べられなくなり、医師から長くは生きられないでしょうと言われました。母は寝たきりの状態で会話はなんとかできました。  
 
  母を訪問した時、私は母に「何か言うことはない?」と尋ねました。母は「何もない」と答え、逆に私に「あんたは何かあるか?」と聞いた来ました。
 
 私は、最も大切なことを伝えたいと願っていたことを言うチャンスと思いました。
 
 私は母に、「母を造られ命を与えた神さまがおられること。その神さまは母を愛していること。母のためにイエスキリストが身代わりになって十字架にかかってくださったこと。」を話しました。そして、母に、「イエスさまを信じて天国に行こうね?」と尋ねたのです。すると母は、私の方に顔を向けてニッコリと笑顔でうなずいて返事をくれました。

 それ以降は、会話はできなくなり、一か月後眠ったまま静かに息をひきとりました。老衰でした。
 
 寂しく思うことがありましたが、天国の希望があったので落ち込むことはありませんでした。
 
 「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(聖書ヨハネの福音書)              
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中学校時代

                  
                  
・ 中学校になると状況は一変しました。小学校時代は半分遊びのような生活でした。

・勉学は特に、中間テスト、期末テストがありました。しかもその成績が順位ごとに張り出され名前まで書かれます。今では考えられないでしょう。ですから、落ち着いてはいられませんでした。3年生になれば受験が控えますからなおさらです。将来の進路も視野に入りますから当然と言えば当然です。

・小学校は通学班でまとまって登校します。集合場所に集まり、集団登校するのです。しかし、中学校は朝夕の部活があり、個人の選択でしたから通学班などありません。ですからほぼ一人通学でした。小学校の時は学校から帰るとみんなで遊びましたが、中学校になるとなくなりました。さびしいですね。 

・部活はバレーボールに入りました。9人制で私はアタッカーでした。市内で5校あり、万年最下位ででしたが、私の時に最下位を脱出することが出来、3位争いを互角に戦いするまでになりました。いい思い出です。 

・この時、将来は電車の運転手になりたかったので、工業高校電気科を目指しました。無事合格することができました。
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小学校時代

                  
                  
・ 小学校時代の記憶ですが、家で勉強した記憶がほとんどありません。子供たち同士で遊んでばかりでした。

・メンコ、秘密基地あそび、虫や魚つかみ、ローラースケート、野原で駆け回る、川遊び、ソフトボール、コマなど学校から帰るとすぐに遊びに出かけました。田舎でしたからそのようにできたのでしょう。楽しい思い出での時代でした。池に行けばメダカ、ザリガニ、亀、ふな、オタマジャクシ。川に行けばどじょう、ナマズなど多くいました。今では少なくなるかいなくなりました。また、夏は、セミの幼虫(どんごろと呼ぶ)を見つけては蚊除けの「かや」に引っかけておくと翌朝には孵化していました。林に行けばクワガタ、カブトムシもいました。なつかしいですね。

・ ローラースケートに夢中になって遊んだときもありました。最初は転んでばかりいましたが、滑れるようになり楽しみました。大人になってアイススケートをやってみると、すぐに慣れて滑れるようになったことは、子どもの頃ローラースケートをしたおかげでしょう。また、一つ年上の女の子に初恋したのも5年生の頃の思い出です。

・ 今の時代蜂はあまり見かけなくなりましたが、この頃家の周りには多くいました。ミツバチ、あしながバチなど。屋根に上がって遊んだり、布団を干したりしてその時何回も刺され痛い思いをしたことを覚えています。屋根にハチの巣がありました。

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愛猫「きなこ」と愛犬「ネオ」のこと

 
愛猫「きなこ」 爆睡!くつろぐ愛猫「きなこ」。
    
 
愛猫「きなこ」のこと
@お出迎え
 きなこは家の中では飼っていません。毛が抜けるし、トイレも困るからです。また外の方が自由で猫の性格から合っていると思うからです。1泊2日の旅行から帰って来た時の事、門の入り口で丸くなってお出迎えしてくれた。感動!
Aある時餌が無くなりました。「きなこ」がおねだりしています。私は、「買ってくるから待ってな!」と言い残しホームセンターへ車で出かけました。ついでに他のものも買って帰ってきたら、なんと本当に待っていたのです。餌入れの横でエライ
 猫は基本的に自己中心でも憎めない癒される存在なのだ。

愛犬「ネオ」のこと
 家族を理解し、他の人には吠えて教えてくれた良き番犬でした。姿は見えなくても足音、エンジンの音さえ家族と他人を区別してる超人的能力は驚き
 また、仕事から帰ってくるといつも愛想よくしっぽをふって暖かく迎えてくれた。その姿にうれしくなり、癒された。ありがとう!人間はいろいろな感情があってなかなかそれが出来ないのです。
 
 
 
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伊勢湾台風のこと

 
伊勢湾台風 死者行方不明者5000人以上をだし、大惨事となった伊勢湾台風
    
 
伊勢湾台風の時、私は2歳でした。ですから記憶はありません。ただ親の話ですと、強風で今にも家が倒れそうなとき、私を抱いて家を出たそうです。その直後家は倒壊しました。もし下敷きになっていたらその後の私や家族の人生は大きく変わっていたことでしょう。歴史に「もしも」はありませんが、このホームページは無かったでしょう。恵みとして受け取りたいと思います。


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保健室

 
      
           保健室          
・ 私は、体が弱いせいか(特に胃腸)子供の頃保健室に行きました。覚えているのは、小学2年生の時。お腹が痛くなり行きました。隣に1年生の女の子もいて、人懐っこい子で私の行動のまねをしていました。今思うと微笑んでしまいます。

・ 5年生の時も腹痛でした。どこが痛いと女の先生にお腹を触られドキドキ恥ずかしい思いをしたことを覚えています。

・ 高校2年の時、急性虫垂炎をやりました。朝、起きてから下腹部に痛みを感じましたが、その時は大したことはありませんでした。その後学校行ってから徐々に痛みが増し、保健室へ行きベッドで寝ていました。痛みはさらに増し我慢の限界になり、保健の先生に訴え、近くの医者に診察。痛みの場所から虫垂炎ではないかということで病院に緊急入院。親の承諾を経て手術、盲腸(虫垂)を取りました。もう少し遅ければ破裂して大変なことになっていました。昔であれば死んでいたことでしょう。

・ 40代には、健康診断に引っ掛かり胃カメラでの検査をしました。胃に小さな潰瘍とピロリ菌の判定。ピロリ菌除去、細胞検査の結果ガンは白判定。ガンだったらどうしようかと不安でしたが異常なしとの医師のことばに心は踊りました。

・ 50代、健康診断に引っ掛かり、大腸内視鏡検査小さいポリープ有り、除去。細胞検査の結果ガンは白判定。この時もガンだったらどうしようかと不安でした。この時も医師のことばに心は踊りました。

健康のためにかなりお金をつぎ込んでいましたが、実現は難しいですね。健康で丈夫な人を見るとうらやましくなります。


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乗り物

 
実は、私には乗り物酔いがあります。これも一つの個性であり、弱さでもあります。

バス  バスは酔ってしまいます。高速で座席が真ん中であればよほど大丈夫ですが、後ろ座席、山道でカーブの道、発信停止の多い市街地はだめです。小学校、中学校の遠足はバスが多くいやでした。乗り物酔いの薬を飲むと眠くなり、寝てしまいます。
     
車  自動車は、自分で運転すれば大丈夫です。乗せられると、山道、カーブなどは酔いやすいですが、バスほどではありません。カーブの多い山道以外はほとんど酔いませんが、その日の体調で変わります。酔う時もあります。
     
電車  電車はなぜか酔いません。子供の時から好きで、あこがれでした。将来運転手になりたいと思ったほどです。今は新幹線が大好きです。静かで揺れず、特に発進時のスムースさは最高です。
     
遊園地  遊園地は好きなのですが、絶叫系マシーンは絶対にダメです。ジュラシックやグレートザブーンなど一瞬で終わるものはOKです。インディー・ジョーンズはなぜかOKでした。恐怖でそれどころではなかったかもしれません。
     
飛行機  飛行機はめったに乗らないのですが、酔ったことはありません。たぶんほとんど揺れないからだと思います。離陸と着陸はスリルを感じドキドキします。
     
船  船は、湖や、河、内海など波のない穏やかなところであれば問題ないです。しかし、外海、外洋の波があり、上下動があると最悪です。酔います。
     

  結論
  絶叫マシーン>船>バス>自動車>飛行機>電車の順でしょうか。大きくゆっくりの繰り返しの揺れが影響を与えるようです。乗り物酔いしない人、絶叫マシーン平気な人を見るとうらやましくなります。楽しんでください。私は自分の特徴、体調に合わせて対応していきたいと思います。
     

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恋心

 
      
           恋心          
・ 初恋と言っていいかわかりませんが、小学校5年生の時です。1歳上の女の子にずっとあこがれていました。話すことはありませんでしたが、よく見かけていたので気にしていました。好きというより、あこがれのような思いでした。

・ 高校2年生の時は、しばらく付き合いました。というより付き合ってもらいました。この人も1歳年上です。朝通学電車で会うのが楽しみでした。手紙で思いを書いて渡したこともあります。でも相手が関心なさそうなのでやめました。付き合ってくれて良い人でした。

・ 高校3年生の時、友人にある女性を紹介頼みましたが、あっさりいやがられ断られました。

・ 社会人にになって、よその職場の女性にアタックしましたが、これも関心なさそうであっさりあきらめました。

 わたしにとって女性は好奇心の対象でしたが、宇宙人、異星人のように得体のしれない存在のようでした。結婚して何十年やっと少しずつ解ってきたような気がします。ちなみに、親も年上女房、おじいさんも年上女房、私は同級ですが7か月年上です。私は人間関係が下手ですから、女性ならなおされでしょう。リードするより、リードされる方が合っているかも。




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体育

 
      
           体育          
 小学校の時、体育は得意科目で好きでした。特に足が速く、選ばれて市の大会に毎年出ていました。しかし、中学校以降は伸びず、周りの子たちはどんどん上にいってしまい不得意科目になってしまいました。小学校の時、体育の通信簿は5だったのが、中学校からは1になってしまったのです。体格はきゃしゃでやせ型、胃腸も弱い体質と思われますが。特にマラソンは苦手でした。大人になってわかったことですが、健康診断の血液検査結果で貧血ぎみであることが分かったのです。人と比べて劣るというのは心の痛みでした。私の人生において、暗い青春時代のはじまりの出来事でした。

 中学校の時、部活動はバレーボール部でした。9人制でアタッカーを担当しました。小学校6年に身長145pだったのが、中学校3年生で170p超えていました、驚きです。市内で万年最下位でしたが脱出できたのでうれしかった。いい思い出です。
 
  高校生の時、中学校の延長の気持ちで弓道部に入りましたが、部活は自由参加で、学校が遠いのもあって4,5か月で帰宅部になりました。この時代に三無主義「無気力・無関心・無責任」という言葉がはやりましたが、 わたしに当てはまる生き方のようでした。

 運動といえば、私は山登りが好きです。自然風景を見ながら登り、頂上からの絶景を楽しむのがたまりません。小さい山から、御嶽山(岐阜県)など数々あります。50代の頃、膝の靭帯を痛めましたが幸い山登りには影響ありません。ただ走ることは無理のようです。元どおりに回復するのは難しいですね。

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音楽

 
      
           音楽          
 音楽は苦手で嫌いな科目でした。小学校、中学校とも音楽の成績は最低で、楽器もリコーダーを吹くのが精一杯でした。楽譜もチンプンカンプンで未だに読めません。

 音楽が好きになったのは中学3年終わり頃からです。きっかけは映画でした。映画が好きで趣味となり、映画の映像と共に流れる音楽の虜になったのです。映像と音楽が一体となって心に響き感動を与えてくれます。映画館では音響はいいのですが、レコードを買って家で聞くと貧相でステレオの趣味にまで発展しました。体に響く低音、繊細な高音、フルオーケストラの良い音を探してステレオを揃えました。就職して給料をもらい、買って手に入れ喜びました。
 
 クリスチャンとなり、ゴスペル、賛美を聞くようになった頃、ゴスペルアーティストのアコースティックギターの音、音色の虜となりました。転任してきた牧師がアコースティックギターを弾き賛美するのを見て、わたしもやりたくなってギターを買い、練習を始めました。ところがうまくならず途中で挫折してしまいました。
 
 7,8年経ったでしょうか再び心が燃え、今度は通信教育で学びながら一からスタートし、ある程度マスターできました。しかし、仕事が忙しく練習もできなくなり、再び挫折してしまったのです。
 
 その後東日本大震災が起こり、その後リーマンショックなどで仕事が減り、練習する時間が出来たのです。再びスタートしました。そして、メンバーも集まりバンドもできたのです。
 
 バンド編成で、ベースギター担当がいなかったので、私はベースギターに挑戦し、今まがりなりにも出来るようになりました。
 
 人生を振り返るとさまざまな出来事や、ハプニング、思い出がありますが、嫌いな音楽の者が変えられて、好きになるとても不思議に思います。  

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アレルギーT

 
              
        ハウスダストダニ          
 中学校3年の冬だったと思います。風邪をひいて治ったのですが、鼻水が続きなかなか止まりませんでした。耳鼻科の医者に行きましたが、鼻炎ということで通っていました。大人になるまで医者に行ったり、行かなかったりしていました。社会人になった時病院で検査、鼻中隔湾曲症ということで手術をし入院しました。鼻の骨を削る苦しい手術でした。手術中涙を流しながらの辛い体験でした。

 しかし、良くなったとは言えず、良かったり、悪かったり繰り返していました。ところが、アレルギーというものが社会問題化されてきて、私のまわりに花粉症の人がちょくちょく出てきました。他人事と思っていましたが、私自身も同じ症状が歳を取ってから現れてきたのです。鼻炎が季節性があるのに気づきます。
 
 思い切って耳鼻科で検査したところ、スギ、ヒノキ、ハウスダスト(ダニ)のアレルギーであることが分かったのです。スギ、ヒノキは季節性、ハウスダストは通年性なのです。ひょっとして中学からの症状はアレルギーだったのだろうかと疑問がわいてきました。その頃はまだアレルギーが一般化して無く、言葉も聞いたこともなかったからです。
 
 スギやヒノキは季節でわかりますが、ハウスダストとかその他さまざまなものは突然ゲリラのように現れるので本当に困ります。根本的な治療は今の医学ではなさそうです。対処療法でわたしは「アレグラ」が合っていて医者にもらっています。他にハーブティーのネトルティーとルイボスティーがアレルギーと貧血に良いとのことで飲用と入浴剤として使っています。まあ気休め程度かもしれませんが。
   鼻のムズムズ感、鼻水、くしゃみ、涙目いずれも辛いですね。私にとって、肉体のトゲの1つです。    

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アレルギーU

 
      
         食物アレルギー野菜食物アレルギー小麦食物アレルギー大豆          
 子どもの頃、若いころ数回はじんましんの記憶がある程度で食物は何でも食べていました。(野菜は苦手でしたが。)しかし、40代後半から食後発疹とかゆみがでるようになりましたが、軽度なので気にせずにいました。

 自分の頭の勝手な想像でたぶん卵、牛乳、肉類ではないかと思い込んでいましたが、症状が軽いので放っていました。。
 
 ところが、症状が頻繁になり気になったので、思い切って皮膚科でアレルギー検査をしました。結果、レベル2がにんにく。レベル1がジャガイモ、ニンジン、たまねぎ、小麦、大豆です。思わぬ結果で驚きました。でも考えてみると今までの記憶を思い出し、なるほど確かにそうだとガテンがいきました。医者は軽度なので大量に食べなければ問題ないとのこと。健康のため野菜、豆腐をよく食べていたのでビックリでした。特に小麦はいろいろなものに使われているのでショックでした。思い込みは間違いですね。正しい情報に基ずくことが大切であると感じました。
 
 野菜はかぼちゃや葉物野菜など代用は多くあります。小麦は米を、大豆は肉、牛乳、卵など代用が効きます。パンやみそ等の発酵しているものはアレルギーが出にくいように思います。パンは2枚食べても症状は出ません。小麦を使うクッキー、麺類などは量を控えます。結果、その後ほとんど症状は出なくなりました。
  食べ物に気を使わなければならないとは、辛いですね。私にとって1つのトゲです。    

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新型肺炎コロナ

 
      
                  
 今新型肺炎コロナが世界中に広がっています。わずか3,4か月でほぼ全世界に感染が回りました。驚くべきスピードです。人の生活、経済に大きな影響を及ぼしています。治療薬がなく、接触を避けることぐらいしか対策が無い状態です。

  人の命を奪う悪質な感染が一刻も早く終息すること、奮闘している医療関係者が守られるよう祈ります。研究者が治療法を見つけ出せるよう願います。

 ある方は、過去の歴史を踏まえ、歴史の転換点であることを言っています。コロナが発生する前、世界は自国第一主義が蔓延し、国家や民族同士の分断がはびこりました。多国間協定から離脱し、国境に壁が作られ、移民規制が行われています。コロナによってさらに進み、個人個人フィジカルディスタンス(物理的距離)まで進み、分断されてしまいました。それとは別に、貧富の格差。少数の人が世界の富の大部分を持つという異常な格差が広がっています。富裕層の1%が富の48%、富裕層の10%が富の87%を持っています。下層の7割が富の3%ほどだそうです。貧富の格差による分断でしょうか。これは怒り、憎悪を増幅し紛争の火種に結び付くでしょう。  
 
  新聞を読んでいた時、ある学者の意見が載っていました。それは、人類がコロナの危機を乗り越えるためには「協力、協調」が必要であると。分断ではなく協力協調だと。貧富の格差もやはり、愛による協力、協調が必要と思います。
 
 皮肉なことに、コロナの影響で、温暖化にブレーキがかかりました。ステイホームで家族の団らんの時間が増えました。
 
 おそらく、コロナ後の世界は変わっていくかもしれません。      

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