ヤマヒロの日記



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  心に残る言葉

私の人生に影響を与えてくれた「言葉」を紹介します。
 
                                             

20.「喪失の世代」(高齢化)

19.「一時的」と「永遠」

18.「死んでも生きる」

17.「進化論」と「創造論」

16.「この世のクズ、かすになりました。」

15.「聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの」

14.「ゆるす愛」「愛はさばかず」W

13.「ゆるす愛」「愛はさばかず」V

12.「ゆるす愛」「愛はさばかず」U

11.「ゆるす愛」「愛はさばかず」T

10.「傾聴」と「受容」

9.「性格は習慣の総計」

8.「類は友を呼ぶU」

7.「beingとdoing」

6.「類は友を呼ぶT」

5.「過去と他人は変えられない」 U

4.「過去と他人は変えられない」 T

3.「自発性」

2.「桃(もも)栗(くり)三年柿(かき)八年」

1.「好き」と「愛」









         
 

  「喪失の世代」(高齢化)

                                      
                  
 私の母は老衰で亡くなりました。晩年は認知症を発症しました。高齢化は喪失の世代と言われます。

 @社会的役割の喪失、退職に伴い生きがい、誇りなどA経済的喪失、収入の減少B心身の健康の喪失、老化現象C老化による行動範囲の縮小、人間関係の縮小D身近な者の死別E身近な死を感じた時の生きる目標、意味の喪失など失われていくものが多いです。高齢化は深刻な問題をすべての人に投げかけます。

 3000年前ソロモン王という人は、富と権力、名声を得て当時栄華を極めた王でした。諸外国との貿易で富み、知恵知識の名声に諸外国から訪問者が聞くために参上しました。そのソロモンは人生の「空しさ」を訴えています。そして、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」と書き残しました。彼の結論は創造者なる神に聴き従うことであると結論しています。

  2000年前パウロという人は、創造者なる神を信じ、死から復活したイエスキリストに出会った彼は「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」と書き残しました。

 創造者なる神を信じ、死の問題を解決した人は生きる希望を持つのではないかと思うのです。  


         
 

  「一時的」と「いつまでも残るもの」

                                      
                  
 楽しい出来事、思い出など多くあります。友人や家族などの旅行、遊び、食事。また、学校行事の思い出など数々あります。しかし、ひと時の楽しい出来事もすぐに過去となってしまいます。時は流れ過ぎ去っていきます。すべては一時的で過去に戻ることはできません。おじいちゃんや両親もこの世から去っていきました。帰っては来ません。私もいつかこの世を去っていきます。実に虚しさを感じます。

 「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」(聖書)これは3500年前モーセが残した言葉です。人生のはかなさを歌いました。地上の生涯は一時的にすぎないのですね。

 「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(聖書)生きるこの世、目に見えるものは一時的なものと言っています。

 「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(聖書)動物には無い人間だけが知性、意思、感情を持ち、永遠を思う心があるのでしょう。

 新約聖書の中に永遠の命ということばが44回も出てきます。その一つに「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(イエスキリストの言葉)人にとって最も大切なものは永遠の命であり、それを与えると聖書は語っています。

 「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(聖書)創造者なる神は、人に永遠の命を与えたいと願っています。それが愛の表現であり、希望であると私は信じています。私は、人にとって一時的なものではなく永遠に続くものが大切であり、希望、喜び、力になるのではと思います。


         
 

  「死んでも生きる」

                                      
                  
 は私にとって、恐怖であり、不安であり、失望の大問題でした。たといこの世で成功したとしても、富、権力、名声を得ても死によっていつか消えて土になり、消えて無くなるのなら無意味です。自分の力ではどうしようもない大問題でした。

 身近な人の死と葬式。さらに父と母の死と葬式。私も今度は自分の番ではと思い、さらに死の不安恐れが襲います

 しかし、イエス・キリストは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と言われました。十字架にかかり、3日目に死からよみがえり復活しました。死の問題を解決してくれたのです。

 私はイエス・キリストを信じクリスチャンになり、死の恐れから開放され自由になりました。生きる原動力になったのです。死は通過点に過ぎないと解りました。


 

  「この世のクズ、かすになりました。」

                                      
                  
 ある時、子供が私に対してブチ切れて、「人間として親としてクズ、失格」と言われました。

 私は反論することはありませんでした。なぜなら、その通りだったからです。言い訳する必要はありませんでした。私は過去をふり返ると多くの過ち、失敗をし、人間として親として欠けたもの、愛のないもの、無知なもの、後悔することが多々あったからです。本当にくずであり失格者なのです。

 聖書の中でパウロは自分のことを「この世のクズ、あらゆるもののかす」と言っています。彼は2000年前、アジアヨーロッパ世界にキリスト教を広めた偉大な人物です。その彼が過去をふり返ったとき自分は大きな過ちを犯し「罪人の頭」「無価値なもの」とも語っています。しかし、彼はそんな自分が神に愛されていることゆるされていることを知りました。そして選ばれて人々を救うために世界中にキリストの福音を伝えるという使命を神さまから与えられたのです。

 ですから、どんなにクズでも失格者でも神に愛されていること。ゆるされない人はいない。救われない人はいないのです。自信を持ちたいですね。


         
 

  「進化論」と「創造論」

                           
         進化論創造論>          
進化論はほとんどすべての人は知っているでしょう。しかし、創造論は日本人は知らないでしょう。なぜなら日本では、新聞、テレビ、教育はすべて進化論一辺倒ですから。私も子どもの頃学校で進化論を教えられました。

進化論は、生命は誰かによって造られたということを否定する無神論です。宗教を否定します。ですから生命は「自然発生」、「偶然」であり、似ているから進化したという想像、解釈となります。一方創造論は、この世界、生命はすべて偉大な創造者によって造られたと解釈、考えるものです

進化論も創造論も事実を証明することができません。進化論は生命の自然発生、種から種への進化を確認したこと見たことはありません。創造論も創造者の造られた様子を確認、見ることはできないのです。進化論も創造論どちらも再現できないのです。ただ、現実の世界を客観的に、科学的に矛盾なく説明できるかにかかっているのです。

・では矛盾なく説明できるかどうか。進化論は、科学的に証明するものはありません。進化論者はいろいろな証拠を提示してきましたが科学的に否定されてきました。科学とつじつまが合いません。根拠は似ているという空想と想像によってつじつまを合わせ解釈し、科学は宗教を排除するという考えです。今は、宇宙のどこかに生命がいないか捜索することに一生懸命のようです。自然発生ですから環境さえよければ宇宙のどこかに生命がいるという考えです。唯一の望みです。

・一方創造論では、科学的な証拠が圧倒的です。最新の科学は創造論を支持します。科学とつじつまが合うのです。ただ宗教に結び付くので退けられ無視されています。これが現実です。

人間観はどうでしょうか。進化論は、人は自然発生ですから意味・目的・理由はありません偶然の存在にすぎないのです。物質であり、死ねば土にかえり無になります。創造論では目的をもって人を造り、単なる物質ではなく創造者からを与えられました。しかも、「神に似せて造られた」と聖書に書かれています。生きる意味を与えてくれます。




         
 

  「聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの。」

                           
                  
・この言葉は聖書の一節です。物事には必ず意味、理由、目的があることを語っています。偶然ではないこと。

・ある生物学者が新聞に意見を述べていました。それは、どんなに小さい微生物から大きな生き物すべて、その環境で生きる意味、理由、目的があるということを。

・偉大な発見をした科学者たち、ケプラー、コペルニクス、ガリレイ、ファラデー、パスツール、ファーブル、パスカル、ボイル、フレミング、プランク、ニュートン、アインシュタイン、コンプトン、ミリカンなど。彼らはこの宇宙を創造された偉大な方を信じていた人たちです。

・ニュートンは、「太陽、惑星、彗星からなる最も美しい系は知性と力ある存在の配慮と支配によってのみ発生しえた。」と語っています。

・アインシュタインは、「私は、神の天地創造の足跡を探していく人間である。」

・プランクは、「理知ある至高の創造者の存在を仮定せずに、宇宙の成り立ちを説明することは、不可能である。」

・ファーブルは「進化論の法則は壮大なものであるけれど、事実を前にしては空気しか入っていないガラスびんみたいなものだ。」と言っています。

・私という存在は誰も知らない、無に等しい人間ですが、偉大な創造者にとっては生きる意味、目的、理由があるということです。うれしいことです。



 

  「ゆるす愛」「愛はさばかず」W

 ゆるすことを実行することは非常に難しいことです。簡単にできないですね。実行できる動機、力になること、私が教えられたこと、思っていることを紹介したいと思います。

 @人をゆるさないと自分もゆるされない法則があるからです。「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」(聖書のことば)また、「だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」(聖書)ゆるすのは自分自身のためです。人をゆるすとき、自分もゆるされると聖書は約束されています。また、加害者も人を傷つけたことで心に痛みを負っている可能性大です。

 A先にゆるされたからこそ、ゆるすことができる。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(聖書)私のすべての過ち、罪の身代わりになってキリストが十字架にかかって裁きを受け、血を流し命を捨ててくださったのです。ゆるされたからこそゆるすことができるようになるのです。キリストは十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られたのです。

 B今後もゆるしが必要になるからです。過ちを犯さない人はいません。将来も失敗、過ちをしてしまう弱い者です。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(聖書)誰でも同じことをしていると納得させ隠すことは、傷や膿を放っておくことと同じです。やがて腐敗していきます。告白し、明らかにすることがいやされる秘訣だそうです。

 C人には生きるために愛が必要だからです。その愛の現われがゆるしです。「神は、実に、そのひとり子(キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」キリストの十字架こそ、罪の赦しを与える神の愛の現われなのです。また、キリストは「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言われました。自分をゆるし、相手もゆるすことが自由と解放をもたらす重要なことと私は思います。


 

  「ゆるす愛」「愛はさばかず」V


 ゆるすことの第3の理由は、人を「自由にし、解放するため」です。

 過ちを犯さない人はこの世には一人もいません。これは現実です。自分の過ちに対する罪責感、加害者に対する怒りこの感情は人の心を蝕みます。ある医者は精神病院の入院患者の罪責感を取り去ることが出来れば、患者の7割は退院出来ると言ってます。また別の博士は人を不幸にする2大要因は罪責感と怒りだそうです。

 罪責感は自分に不安をもたらし自信を失わせ、感情が不安定で人間関係がうまくいかなくなるのだそうです。また、過去にとらわれ前に進まなくするそうです。

 人に対する怒りの感情は相手以上に自分の心を傷つけるそうです。相手はとっくに忘れているかもしれません。しかし、当の本人は10年も20年も怒り続けること苦しみ続けることで健康を蝕みます。不幸なことです。後ろを見ながら前に進むようなものです。

 自分をゆるし、相手をゆるすことの大きなメリットは自分の心の傷から解放し、自由になることなのです。
 
 穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。(聖書 箴言14章30)
 陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。(聖書 箴言17章22)

 自分自身の問題なので、人間関係を変え、仕事を変え、住む場所を変えても逃れることはできません。また、ゆるすことは非常に難しいことです。簡単に出来ることではありません。つづく


 

  「ゆるす愛」「愛はさばかず」U


 ゆるすことの第2の理由は、人は「すべてのことを知らない」別の言い方を言うと「一部のことしか知らない」からだと思います。難しい言葉で認知の錯誤

 人は目に見える行動を見てすぐにさばいたり、怒ったりします。当然です。しかしそれはあくまでも表面上のことです。よく氷山の一角と言います。人の心の中は本当にわからないのです。

 人のとる行動行為には必ず何か理由、目的、意味があります。「そうしなければならなかった理由」があるはずです。それはその人の心の中に隠れています。ですから聴くことが必要になります。耳を傾けるのです。隠れた理由や思いが解ったとき時、案外「そうだったのか」と理解してゆるしてあげることが出来るかもしれません。また、気持ち、感情を理解してもらったときに相手は愛を感じ、喜びを感じるでしょう。そして変わるエネルギーになると言います。聴いて気持ちを理解するさらに共感することは、実は愛の行為なのです。

 私は、表面の行為や言葉にすぐに反応して、裁いたり、叱ったり、怒ったりしてしまいました。耳を傾け聞くということをしませんでした。その人の心、感情を理解してあげなかったのです。聴いて理解してあげるという知識もありませんでした。今まで多くの失敗をしてきたのです。本当に申し訳ない思いでいっぱいです。愛の心が無かったのですね。

 聖書に「何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主(神)は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。」また、「人はうわべを見るが、主(神)は心を見る。」と書いてあります。人の行為よりも心、感情,思いを理解してあげることが大切であると思います。
 


         
 

  「ゆるす愛」「愛はさばかず」T


 わたしはなかなか人をゆるすことができません。すぐに裁いてしまいます。生まれながら苦手です。人のミスや、自分に関係するときは特に批判したり、怒ったり、裁いたりしてしまいます。私にとってゆるすことは非常に難しいことです。

 ゆるすことの大切な第1の理由は、「自分も同じことをしている」ことです。聖書には「すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」、私は人を批判したりしたことをある時、同じことをしていると気が付く時があります。1度や2度ではありません。

 子どもの行動や考え方を失望したり、批判したりしてしまいますが、自分も過去を振り返ると(今でもかもしれません)同じことをしているのです。
 
 ですから、人を見る前に自分の姿を吟味することが必要であり、怒る前に人の行動する背後にある理由、気持ちを理解してあげること。ゆるす寛容な心。人の成長を見守ること。など私自身の人格的成長が必要であると気が付きました。これは愛につながる行為です。

 「ゆるしなさい。そうすれば、自分もゆるされます。」(聖書)


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  「自発性」

馬は水辺に導くことはできるが、水を飲ませることはできない。」

 自発性を持たせることが重要であるという意味です。それが解らないと力や暴力など外部から無理なことをしてしまいます。
 独裁者は権力をもって人を治めますが、力、恐怖、武力などで無理やりにおこなうと一時的には収まりますが、人々の心には反発、反抗心が育ちやがて革命、内戦に発展するでしょう。暴力には副作用があります。人間関係を悪化させ、理由があれば、暴力をふっるってもいいとか、やがて力がついた時に立ち上がるとか、新たな暴力を生み出します。。

 国であれ、社会であれ、家庭であれ人間関係には自発性が非常に大切であると教えられました。

 聖書の中でパウロという人は、「あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。」と書いています。なぜでしょうか。それは、神がそういう方だからです。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。」と書いています。つまり、神ご自身が人の自発性を求めておられるからです。
 
  私は、他者の意志、自発性、自主性を尊重したいと思います。
  
  
  
                    
                    

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  「好き」と「愛」

「好き」は自分の欲求(ニーズ)を満たしている意味
「愛」は他者の欲求(ニーズ)を満たしている意味
好きで愛するは、未成熟の愛
好きでなくても愛するは、成熟の愛

 上記の言葉はわたしにとって耳の痛い言葉です。私がいかに自己中心で生きてきたことか。愛と口では言うけれども、実際が伴っていない。良いと分かっていてもなかなかそれが出来ない。そういう自分に失望してしまうのです。愛は時間と力を他者に与える、つまり犠牲を伴うからなのでしょう。それができるように願っています。
 
 聖書には、「 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」と書かれています。
 イエス・キリストは、
    @敵を愛し、迫害する者のために祈り、
    Aすべての人の罪を負って、十字架にかかり、身代わりとなり命を捨て、
    B生涯、人に仕えたと聖書は伝えます。
  つまり、人への愛を現わしたと言っています。
   
 
                    
         

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  「桃(もも)栗(くり)三年柿(かき)八年」

 上記のことわざは、果樹を植えて実がなるまでに期間がかかること。それも種類によって違いがあることを言っています。種から根が出て、芽が生えます。やがて木になり、実を結ぶようになるのです。途中に干ばつ、大雨、高温、低温、などさまざまな環境の変化に合います。人も一人一人個性、性格、体格、人格の違いがあり、成長にも違いがあるはずです。
 
  自然界のさまざまな生き物、動植物の個性、多様性もこれを現わしています。人のDNA遺伝子は一人ひとりすべて違い、同じ人はいません。つまり、私やあなたに代わる人はいないということです。素晴らしいことです。
 
 6・3・3・4、この数字は日本の学校教育の制度です。この制度のように順調にすすめば〇、つまずけば×ではないでしょう。問題が起こった時それは、成長のステップであると教えられました。特に心、人格の成長はさまざまでしょう。
 
 ある親子の話、子供が「学校へ行きたくない」と言いました。その父親は「行きたくなかったら行かなくてもいいよ。」と返したそうです。すごいなあと思いました。わたしもそのようになりたいと思います。行きたくないのは、行きたくない何らかの理由があるはずです。そこを理解してあげることが必要なのです。
 
  わたしは世間体やプライド、すぐに人と比較してしまったりして間違いに気づかされました。私はわたしで良いのですね。
 
  聖書に「 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し....」神は一人ひとりに違う能力、賜物を分け与えていることを教えています。また、聖書の中でパウロという人は、「私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。」と語っています。
  参考にしたいと思います。  
 
 
                     
         

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  「過去と他人は変えられない」T

  「過去と他人は変えられない」けれども、自分と今は変えられる。過去の出来事は変えられないが、出来事の意味、解釈は変えられる(認知の修正はできる)。認知が変わると行動が変わる。とは、ある先生の言葉です。
  
 私は、過去を思い出すと多くの失敗、過ち、人を傷つけ迷惑をかけていたことがいっぱいあります。その時は正しいと思ったり、弱さ、無知、罪深さのゆえの行動でしたが、後になって間違っていたことに気づくのです。そして後悔し,思い出すたびに落ち込んでしまうのです。
 
 その先生は、完全な人はいない。誰でも失敗はする、弱さを持ったもの。気づいたら修正すればいい。と言っていました。
 
 私は、あの時はそれしか出来なかった自分の弱さを認め、気づいた今から修正すれば良いと考えたいと思います。あの時はさまざまな事情や理由があったのです。そして今は理解できるようになったのです。解釈、意味は変わるのです。
  
  
  
                    


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  「過去と他人は変えられない」U

  前回は、「過去」は変えられないを取り上げましたが、今回は「他人」は変えられないについて取り上げます。
  
 別の言葉に「変えよう(治そう)とするな、解ろうとせよ」というのがあります。
 
 ある先生は、「訓戒は、訓戒される者が訓戒する者に対する確固たる信頼がある場合を除いて無力である。」と言っています。
 
 また、変えよう(治そう)とすると、攻められている、自分を否定される、裁かれている感情を与え、こころを閉ざしてしまうことが多いそうです。変えようとすることは上から目線で、従うことを要求され、反発心を起こします。人間にとって「従う」ことは難しいことの一つです。なぜなら生まれながらの人は自分中心、自分が王さまです。人の命令は支配されることを意味するからです。子が親に反発する、部下が上司に反発する、民が王に反発する。などよくある話です。

  大切なことは、「解ろうとする」ことだそうです。人は、自分の気持ちを聞いてくれ、理解してもらった、受け止めてくれた時、安心感を与え客観的に物事を考えるようになるのだそうです。そして答えは自分が持っていることが多いのだそうです。そして自発性が出るのでしょう。別の先生は「非指示、支持」(指示はしない、気持ちを支持)と言っています。
  
  私なんかは、人の気持ちを聞き理解しようともせず、すぐに指示してしまう、教えようとして多くの失敗をしてきました。大きな反省です!
  
                    
         

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  「類は友を呼ぶT」

  世の中には、同性、同級生、同期、趣味のグループ、同窓生、同郷、暴走族、非行グループなどさまざまな仲のいい集まり、付き合い、交わりがあります。

  同じような人が集まるのは、ただ単に趣味が同じとか、気が合うとか、考えが合うなど似ているからではなく、自分と同じ行動をしているから批判されたり、裁かれたり、蔑視されたりすることがないからなのだそうです。安心していられる、居心地がいいからだということだそうです。
  
  そう言われてみると自分を含め、周りを見てみるとそうなのですが、やはり仲のいいグループというのは、自分を受け入れてくれる、理解してもらえる、安心して居られる場所ということですね。
  
  家庭において、大切にされ、受け入れられ、ゆるされ、理解され、安心できる場所があれば非行グループとか、犯罪集団への逃避は無くなるとある先生は言っておられます。納得させられる言葉です。                     
         

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  「beingとdoing」

  人が生きていくときに、多くの人が重要な問題にぶち当たるそうです。一つめは、私は何者か誰なのか?二つめは、生きる意味目的は何か?三つめは、私には生きる価値があるか?4つめは、私は必要とされているか?などです。

  「being」と「doing」という言葉があります。「being」を日本語にすると、「存在」でしょうか。「doing」を日本語にすると、「行い」といえます。
  
  人の価値を「being」(存在)として見るか、「doing」(行い)で評価するかで大きく違ってきます。とかく世間では立派な行いをすると評価されますし、逆にしない出来ないと評価されません。経済至上主義、結果重視だとなおさらのことです。ですから出来たときは意気揚々、自慢しますし、逆に出来ないと落ち込んでしまいます。出来る人は価値のある人、出来ない人は価値のない人などと評価してしまいます。
  
   価値を考える時、二つの捉え方があります。無神論と有神論です。無神論は進化論を代表とし、すべての存在は偶然で、人も偶然に存在している者と見ます。ですから価値はその人自身か、他人の評価が影響を与えます。その結果「doing」(行い)で価値を見い出すようになるでしょう。(日本では多くが進化論の立場に立ちますから行いが重視されるでしょう。また、仏教ですから行いや修行を重視するでしょう。)
  
  有神論は創造論のことで、この世界も人も創造された神がいるという捉え方で、目に見えるものは目的と計画をもって造られたと考えます。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教がこれに当たります。聖書には、人は「神のかたちに似せて造られた」と書かれており、神が人を「愛された」といっています。つまり「being」(存在)そのものに価値があることを語っています。
 
 私は以前は、神など無い、信じないで生きていました。そして、人からの評価を気にしていました。人が私をどう見ているかビクビクしていたのです。また、人と比べたり、自分の現実を見たとき価値のない者、生きる意味のない者と考え落ち込みました。しかし、イエス・キリストに出会い、私は目的をもって造られたもの、愛されている者であると解り、生きる希望を与えられました。たとえ良い行いが出来なかったとしても、存在そのものを価値あるものと認められているからです。
 
 「わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(聖書)
 
                    
         

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  「類は友を呼ぶU」

  「類は友を呼ぶ」にはもう一つの側面があると思います。私たちは様々な問題、試練、災害、病気などにぶち当たり苦しんでいる時、自分は不幸な人間と思い、誰も私の苦しみを理解し知っている人はいない、解ってくれる人はいないと感じてしまいます。周りの喜んでいる人を見るとなおさら、極端に私は世界で一番不幸な人と思い込んでしまいます。挫折感を味わってしまうのではないでしょうか。

  聖書の言葉に「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。」と書いてあります。つまり、試練に会っているのは自分だけでなく、この日本に、世界中に同じような試練に会っている人がいると言っています。また、聖書に、「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」とも書かれています。ある人は、問題のない人はこの世にひとりもいない、無いところは墓場です。と言っています。
  
  様々な集まりがあります。難病の会、犯罪被害者の会、障がい者の会、ひきこもりを抱える家族、遺児、被災者、アルコールなどの依存症など、同じ問題を抱えている人たちが集まり支え合っています。苦しんでいるのは私だけではないと知る時、同じような苦しんでいる人が他にもいると知る時、慰めとなり、また、共に集まり語り合い、助け合うことは励ましとなるでしょう。
  
                       
         

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  「性格は習慣の総計」

  この言葉もなるほどと思わされた言葉です。一人ひとりの性格、個性、キャラクターは千差万別ですね。性格はその人の生活習慣が影響するそうです。

  感情、思い、行動などを繰り返し続けると、心、体、脳が学習しその人の性格を作り上げていくというものです。
  
  例えば、ある人に怒りの感情を持ったとします。その思いを頭の中で繰り返します。まるでテープで再生するように。それが長い期間続くと、脳の中にシナプスという脳細胞を繋ぐ怒りの回路が出来てしまいます。そうなると無意識のうちに心、言葉、行動となって怒りの感情が現れてくるというものです。
  
  「自分はダメな人間だ」と思っている人が、「私は愛され、大切な人だ」と朝30回、夜30回繰り返し唱えます。それを3か月繰り返すと、「私は愛され、大切な人だ」というシナプスの新しい脳細胞を繋ぐ回路ができます。そして「自分はダメな人間だ」というシナプスの回路は衰退していくそうです。この方法を用いているグループがあるそうです。聖書には神さまの私たちに対する約束、恵みの言葉がいっぱいあります(プラスのストローク)。きっと輝いてくるでしょう。プラス思考(プラスのストローク)、マイナス思考(マイナスのストローク)で大きく差が出ると思います。
  
  ある足が上げられない障害者の話ですが、訓練をしたそうです。1日新聞紙1枚を使い足を上げる訓練をします。2日目は2枚にします。それを繰り返し一枚ずつ増やしていきます。1枚は大した高さはありません。微々たるものです。しかし、続けることで、半年後、1年後、2年後にはかなり足を上げられるようになったということです。
  
  ある電車に乗ることが出来なかった障害者の話です。始めは「駅まで行って帰って来る」訓練を繰り返し続けます。それが出来たら今度は「駅で切符を買って帰って来る」だけの訓練を繰り返します。出来たらその次は、「駅のホームまで行って帰って来る」。それを繰り返します。次のステップは「電車に乗ってすぐに降りて帰って来る」というものです。それを繰り返します。次のステップは「一駅だけ乗って帰ってくる」気の遠くなるような思いですが、忍耐と訓練によって勝ち得たという話です。   
  
  ある目標を設定します。無理かもしれません。しかし、細かく分け途中にステップ、小さい目標を踏んで訓練を積み上げることで、最終的に目標を達成する。これは行動療法と言います。時間をかけコツコツと進んでいきます。気持ち、志、意志、情熱があれば効果的と思います。自分が変わることが出来るチャンスかもしれません。
  
                       
         

旅
 

  「傾聴」と「受容」

  私は、聞くことが下手くそというか、苦手なのです。忙しくて聞かないとか、あいさつ程度とか。うわべのことしか理解しないなど。相手の話をしっかり聞かず自分の知識とか思い、意見を教えたがり、主張したり、押し付けようとしたりしてしまうのです。だから、人間関係がうまくいかないのでしょう。

傾聴」と「受容」いうことを学びました。人の話に耳を傾ける。ただ聞くだけでなく、その言葉の背後にあるその人の気持ち、感情を理解してあげること。受け止めてあげること。相手の身になって共感してあげること。これが重要ということです。相手が話したいのは自分の気持ちを理解してほしい、気が楽になりたいと願っているからです。実に聴くことは愛の行為と言えます。相手の話をさえぎり教えようとすることは相手を裁くことにつながり、相手は裁かれることで心を閉ざしてしまうそうです。「教えようとするな、解ろうとせよ」逆に相手の話をよく聴き、気持ち、感情を理解してあげることで相手は解放され、次のステップに進んで行くようになるそうです。特に苦しみの感情を持っている人はそうです。聴いてくれた人には心を開いてくれるというのです。
  
 残念ながら、私はこの「傾聴」と「受容」という大切なことを家族や学校、友人から教えられたことが一度もありませんでした。教えられたのは、人生の大半を過ぎた年になって学んだ通信教育のカウンセリングコースだったのです。私は、もう遅いじゃないか、なぜもっと早く知ることができなかったのかと恨めしく思いました。

 「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」これは聖書の言葉です。語るよりも聞くこと重要視しています。   
 次も聖書の言葉です。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」人の感情、思い、気持ちを理解し、共感することの大切さを教えています。2000年前にすでに大切なことを聖書では教えていたのです。

私はこれからの人生、良い聴き手になりたいと思います。なれるといいな。   

  


                    
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